授業開始のチャイムへの対応は・・授業始めのあいさつをしないですぐに授業に入る。この取り組みがそもそも形骸化している。 何のためにしているのか?という教師の自己分析が足りないからだ。 ・授業の導入がだれるから ・さっと授業に入るほうがいいから というこの取り組みをしている方の声を聞く。 いらない「儀式」をなくすというこの考えは、 時間をキチンと守って授業で勝負するという考えと、 子ども達に時間を自分から守るという態度を育てたいということであろう。 しかし、現状では「形骸化」している。 まあ、そこそこ上手くいっている学級では、 先生もチャイムと同時にそれなりの授業を始めるので、子どもはついてきているようである。 が、子ども達は、その「次」の行動ができるようには育っていない。 自分で考えて行動するようには育っていないのである。 例えば、 ・給食準備時間はどうしているのか? ・特別教室への移動はどうなっているのか? ・行事等のクラス別の並び方はどうなっているのか? ・朝自習は課題設定から自分で行っているのか? などが、自分(達)でできていないのである。 「先生は「気をつけ、礼」はしない」 といった程度の認識しかないのである。 本来なら、この「儀式」をなくすということは、他の場面でも自分で考え、自分の必要な価値ある行為を具体的に取れるような子どもに育つはずである。 そうならないのはなぜか? 教師の思想・哲学が弱いからである。 このような子どもに育てたいという具体的なイメージとそうしたいという強い思想哲学がないからである。 つまり、教師の1つの授業行為がどんな思想・哲学で支えられているのかによって違ってくるのである。子どもの成長・変化はゴールがない。 1.「チャイムが鳴っても教室に教師がいない」 2.「チャイムが鳴って子ども達に席に着くように言う」 3.「チャイムが鳴って『儀式』を行う」 4.「時間がきたらすぐに授業を始める」 というステップは4が最高のように考えられている。教師の思考がそこで止まっているのである。というよりも教師の思想哲学が貧弱なのである。 違った言い方をすれば、 ・教師が次を考えるための自己否定ができない 「おっ、これはいい方法だ」で飛びつき、その実践を厳しく自己吟味できない。 HOW・TOの方法論だけで学校現場(社会)に出ている若い人に多い。 ・子どもの望ましい姿を具体的に描くことができない これは子どもを見る眼弱いから。または、人間観察がダメだから。文学の世界が不十分であるから。 ・低レベルに気づかず「私は一生懸命していますよ」という媚を売ってごまかしている(多くの場合はこのことに教師自身が気づいていない) ・「儀式」をやめているだけで満足している教師は、「少し勉強していますよ」という媚を売っている。 どちらもいまの学校で(地域)でどうすごそうか・・という小さなお山が全てだと思っている人に多い。戦いをしない姑息な人に多い。 と考えると、 ・教師の思想・哲学が問題である ・子どもをどこまで見れるかが問題である ・その子どもを鍛え育てる技術があるかどうかが問題である となる。 この考え方は重要である。すべての教育活動に通じるからである。 例えば、 ・隣同士で話し合わさせるのはなぜか?→多くは気の弱い子も安心できる、となる。が、それだけではないはずである。教師が、ある願いを持っていれば、そのような通り一遍の答えではなくなるはずである。その願いが(教科のねらいかもしれないが)教師の思想哲学である。 ジャンル別一覧
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